2011年になってから九四式自動拳銃モデルガンはカッタウェイ(1月)に始まり後期型(5月発売)、中期型(10月発売)と発展してきた。私が如何にこの銃に思い入れを持っているかの証でもある。
65話を読んだ方から鳥居松製造所慰霊碑へ行きたいので地図が欲しいという要望があった。前回、書き足らなかった部分と合わせて掲示したい。まず、地図は写真を参考にしていただくとして住所は次のようだ。愛知県春日井市上条町6(じょうじょうちょうと読む)慰霊碑はガソリンスタンドの向かいにある。
鳥居松製造所の沿革を記しておく。参考にして欲しい。
*名古屋陸軍造兵廠 鳥居松製造所 昭和十四年〜(1939年)
沿革:昭和六年に起きた満州事変以降、長引く戦争のために、陸軍は兵器や弾薬の増産に迫られた。名古屋工廠(昭和十五年以降名古屋陸軍造兵廠)においては鳥居松製造所(昭和十四年)鷹来製造所(昭和十六年)柳津製造所(昭和十九年)楠製造所(昭和十九年)を建設してそれに対処していった。鳥居松製造所は昭和十四年五月一日、千種兵器製造所の鳥居松工場として開設、同年七月に独立したものである。敷地面積は二十六万三千坪余、敗戦時の従業員数約一万二千名だった。製造品目は九九式小銃、三十年式銃剣、十四年式拳銃、九四式拳銃、一式短剣、九九式狙撃銃などであった。(「名古屋陸軍造兵廠史・陸軍航空工廠史」より)
鳥居松製造所の当時の歴史に興味のある方は「郷土史かすがい」25号にその成り立ちについて詳しく書かれているのでおすすめしたい。終戦の8月15日前日に製造書が空襲を受けたことなども記述されている。
郷土誌かすがい 第25号|春日井市
ところで65話後半で予告した「後期型(末期型)」をリリース。立て続けに「中期型」もリリースした。洋書「日本帝国の拳銃」を読むほどに「ラスト・ディッチ=末期型」と「中期型」を是非形に残したいという気持ちが
つのり製作を決めた。中期型に関しては私がその昔にサンフランシスコで撃ったのが中期型そのものだったというのも理由の一つだ(65話の写真参照)。以下に後期型及び中期型モデルガンに添付するマニュアルのコピーを掲示するので興味のある方は読んで欲しい。前期型との違いが数多くあることがそれを再現したいメーカーとしての血が騒いだのもあるかも知れない。銃器専門誌で当社製品を称して「ハートフォードがモデルアップするのは歴史を背負った銃。」と表現された。これほど的を得た表現は無いと感じた。
九四式自動拳銃後期型(末期型)について。
一般的に九四式は昭和15年を境に前期型、後期型と分けられます。約7万丁といわれる総製造数では圧倒的に後期型が多く、前期型20%後期型は80%という極端な差になっています。前期型は仕上げが良く、後期型、特に末期型は質が落ち。別の銃と思われるほど形状的に手抜きされていました。その違いはフレーム前部の厚みの差、スライドは前期型は円形を維持した優雅な形状をしているのに反し後期型ではよく言えば太くガッチリとしたデザインに変わっています。ある意味、前期型と後期型の形状の変化はそれぞれ女性的、男性的と表現出来るかも知れません。昭和19年戦況が落ちた「本土決戦」前、名古屋陸軍造兵廠鳥居松製造所に東京、国分寺から九四式自動拳銃を製造する機械が運ばれ、鳥居松で製造が始まりました。驚くことに終戦の八月の二ヶ月前の6月までその製造は続けられました。学徒動員など九四式製造の加工内容、加工程度、加工量、質は落ちるべくして落ちていきました。ベークライト製チェッカーグリップもただの板切れに変わり、なだらかなラインを描いていたボルトは加工されず角ばったままの状態で組み立てられ出荷されました。これらは海外では「square
back model」と表されています。昭和20年以降の「ラスト・ディッチ」訳すと「どたん場」といわれる製品は後期型でもそれはもはや末期型といえるものでした。今回、再現する後期型はまさしくこの「ラスト・ディッチ」そのものです。優雅で女性的だった前期型に比べ男性的な後期型、いや末期型はいわば歴史の証人の一つです。コレクションとして大切にお持ちください。
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九四式自動拳銃・中期型
九四式は一般的に昭和十五年を境に前期型、後期型と分けられますが製造数に限ってみれば前期型が約9,560丁、後期型は約61,500丁と圧倒的に後期型が占めます。先にリリースした後期型は末期型といわれ戦況が落ちた昭和二十年三月製を再現。今回は後期型の中でも「中期型」と位置される昭和十八年十二月製を再現します。専門誌やネットでなど一番見る機会の多い典型的な九四式拳銃の姿です。その特徴で特に挙げられるのがチェッカー目の粗いグリップ。全体的にほっそりとスマートな前期型に比べがっしりとした男性的なフォルムがこの中期型です。その違いを是非、体感ください。
なお、熱田工場(現、中京倉庫)の住所は以下の通り。
住所:名古屋市熱田区六野町2-1-3
レンガつくりの建物に沿って歩くとJR線(当時は国鉄)にぶつかるはずだ。戦時中は構内に引き込み線があり物資の出荷、供給に役立っていたそうだ。名古屋には数多くの軍需工場があるので機会があったら紹介したい。
旧鳥居松工場への地図 |
上条町交差点から見る「慰霊碑」 |
違ったアングルからの「碑」 |
横に昭和二十年戦死された方が彫られている |
前期型と後期型の相違点(当社マニュアルより |
後期型写真 |
当社チラシ・中期型
前期型との比較図も掲載。 |
当社チラシ・前期型
驚くことにインターネット・オークションで3,000円で出品されていた。 |
洋書「日本帝国の拳銃
再考」と当社九四式・中期型とカッタウェイ。前期型、後期型は売り切れてしまった。この洋書にはお世話になりました。特に製造数、シリアルナンバーは参考にさせてもらった。 |
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