お立ち寄りの皆様へ。
おひまでしたらハートフォード代表、コネティ加藤のつぶやきを聞いてやって下さい。
(WEBスタッフ@ハートフォードより)
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第10話 子供の頃の思い出
「ご飯だよ〜」。
夕焼けに響く母の声が家に帰る合図だった。時は昭和30年代初め、泥だらけになって遊んで帰った夕飯後の楽しみは、この頃花盛りのテレビ版西部劇であった。その中には強大で正義の国、アメリカが間違いなくあった。
「ローハイド」「拳銃無宿」「ララミー牧場」「コルト45」(私はまだこれらの主題歌を歌える)など…。
復興期とはいえ家の周りは空き地や野原ばかりで、ウェスタンごっこをするには充分のスペースがあった。ただ、イメージの主人公に扮しても何か足らないものがあった。
そう、西部劇のもう一つの主人公、コルト45、つまりピースメーカー(荒野の決闘にも登場)である。
最初は木やボール紙でそれらしく銃とガンベルトを作ってはみるのだが、どうもシックリこない。イメージの主人公をより昇華させるのはもっとリアルなピースメーカーが欲しい!。!この小さな欲望がガンショップという現在の職業に至っている。
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ピースメーカー(正式にはコルト・シングル・アクション・アーミー45)は、「西部を征服した銃」といわれ、1873年製造開始以来、生産中断の時期はあったものの、現在まで一世紀以上の間作られてきたコルト社の象徴的な製品だ。
オートマティック銃全盛の今なお、日米を問わず多くの熱狂的なファンを持っているのも大きな特徴である。
何年か前、米国で本物をを手に入れ彼の地に預けてあるが、これもこの銃に恋したあまりの事。今ではピースメーカーに会うのが渡米の楽しみになってしまっている。
銃(ハード)に開拓者精神(フロンティアスピリット)というソフトが付いているのはピースメーカー以外では考えられない。そして今でも私は「何ものにも負けず前進する」フロンティアスピリットが大好きだ。
(「テレビ・タロー1994年8月号」掲載のエッセイより。)
【2002年4月2日発】
(株)ハートフォード代表 コネティ加藤 |
第9話 米国ショット・ショー・2002・レポート
全米で一番大きなガンショーであるショットショーに2月2日〜5日まで行ってきた。詳しくはアームズマガジン2002年5月号の特集でレポートしているのでそちらをご覧いただきたい。
ここでは久しぶりに行ったラスベガスの印象とともに独り言をつぶやいている。まぁ、暇つぶしに読んでいってください。
今回、成田からラスベガス間をアメリカン・エアラインを使って行って来た。なぜアメリカンを選んだかというと椅子の幅と席間が他の航空会社のそれよりも広いということが理由だった。食事も接続の時間もよくとても快適だった。同区間の航空運賃が\50,000円。安い?いや、まだ安い航空運賃は有ったが席間が広いという先の理由でここに決めたわけだ。映画も5本くらいずっと流して選り取り見どりで長時間のフライトにも充分耐えることも出来た。アメリカの航空会社なのでテロの標的に!?と周りの人たちに心配されたが無事帰る事もできた。(だからこのレポート書いているんだけどね。)途中、飛行機に乗る度に上着や靴を脱がされたりしたがアメリカではエイリアンである私たちにとっては仕方ないことと機嫌よくセキュリティラインに毎回並んだものだった。
今回のショットショーでの一番の収穫は懐かしい人たちとの邂逅だった。それは98年オールジャパンファストドロウチャンピオンシップにゲストとして参加してくれたゲーリー・トライアン氏(WFDAアリゾナバイスチェアマン)と奥さんのジョイス・トライアンに再会できたことだった。私に会いにわざわざアリゾナから車で7時間もかけて来てくれたのだった。また、会場で偶然にもボブ・マンデン氏と会うことができた。一緒に来場された奥さんのベッキーさんとも会うことが出来た。
ところでボブ・マンデン氏はファストドロウビデオでもその早撃ちの妙技を見せているが、ビデオでは結構な大柄な方と思っていたのに背丈は私(身長;167センチ)とそんなに変わりがなかった。日本へ呼んでくれればエキジビジョンを見せるよ、と言ってくれたのがとても印象的だった。 |
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ショットショーではウェスタンガン、オールドガン、カウボーイシューティングに重きをおいて各ブースを回った。
その中でイタリアのアルド・ウベルティのブースに入ったときのことだ。ウベルティはご存知の方は多いと思うが在米のオールドガンメーカー、EMF、シマロン、タイラーなどへ各種のピースメーカーやパーカッションガンをOEM(相手先ブランド)
生産しているイタリアの大手ガンメーカー。そこのブースに居た女性と色々な話をすることになった。生来が女性には気軽に声をかけてしまう図々しい性格なのでご機嫌よくお話をしていた。
途中、ふと思い出した事があった。そういえばウベルティの社長って女性だったよなって。そして彼女に聞いた。「ウベルティの社長は女性でしたよね。今回はこのショットショーに来られてないんですか?」彼女の返事は「私がそうよ!!」なんとずっと話をしていたその人があの有名なマリア・ウベルティ女史だったのだ。感激。実はウベルティはあのセルジォ・レオーネ監督でクリント・イーストウッド主演の「荒野の用心棒」の誕生に深くかかわっていて、彼女はその誕生の歴史の証人でもあるのだ。私は感激のあまり両手で握手をした上サインまで貰っちゃった。この歴史の証人という話に興味のある人は洋書であるがR.L.ウィルソン氏著「ピースメーカーズ」をぜひ読まれる事をお奨めする。
ところでショットショーとほぼ同時開催されていたラスベガスアンティークアームズショーも取材したのでこちらの写真もぜひ見ていってほしい。両ショーについて質問のある方は東京か本社のショップや、イベント会場で私を見かけたらぜひ聞いてくれればお答えしたい。(ただし、時間があれば・・・)
【2002年3月12日発】
(株)ハートフォード代表 コネティ加藤 |
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コルト・ブース |
キャトル・ブランド
エングレーブSAA |
SAAオールド群 |
SAAオールド |
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ウインチェスター
ケースハードン |
ボブ・マンデン
夫妻と |
ゲーリー・トライアン
夫妻と |
マリア・ウベルティ
女史と |
第8話 2001オールジャパンファストドロウチャンピオンシップ
チャンピオンシップは平成13年11月3日、4日の二日間ワフダジャパンの主催、同関西支部の主管で開催された。会場となったのは例年ショットショー大阪でお馴染みとなっている大阪サンボール地下であった。ここは99年の同チャンピオンシップで熱戦が繰り広げられた会場でもある。
出場45名の実力シューターによって熱く息詰まる戦いが繰り広げられた。
もちろん、私も出場してファストドロウの醍醐味を共有したのでその興奮をお楽しみいただきたい。
今回、従来の大会と違っていた点があったのでそれを列記してみた。もちろん競技種目については各支部でのオリジナリティが出るので、ある意味ではそれが魅力付けの一つにもなっている。
従来大会と違う点@
モデルガンのシュートだけでなく今回、エキジビジョンではあったがガスガンのシュートを取り入れた。
今後はモデルガンのステージをブランク、ガスガンのステージをスタンディングワックスとネーミングして開催されると思う。興味のある方は覚えておいた方が便利と思う。多分、次回からはワックスイベントも正式種目となる可能性が高いのでより多くのシューターの参加が望めるのかもしれない。
モデルガンイベント=スタンディング・ブランク
ガスガンイベント=スタンディングワックス
ブランク、ワックスは米国で使われているネーミングで日本のファストドロウも本場に近づいてきているといえる。
従来大会と違う点A
今回はトラディッショナル・シングル、トラディッショナル・ダブルが総合成績に集計される種目だった。また、オープン及びサミング=ワンハンドは総合成績の対象には加えられず単独種目となった。 |
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トラディッショナル・シングルでは米国と同様サミング、ツーハンド(銃はひねらない。)どちらでシュートしても自由なので圧倒的にツーハンドシューターが上位を占めた。昨年に予言していたが、サミングからツーハンドへ転向するシューターがより増えることは確実であろう。15位までしか紹介していないが右頁表中のうち13位のマーク渡辺だけがワンハンドシューターだ。15位以降もなんと22位までがツーハンドシューターである。日本におけるファスト・ドロウの歴史はワンハンド(サミング)を中心に発展してきたと言っても過言ではない。特に首都圏以北ではその傾向が強かった。かくいう私もサミングにこだわってきた一人と言えよう。実際、米国でもボブ・ジェームズのようにサミングにこだわって大会に出場しているシューターもいるがそれは例外でもある。個人的にサミングにこだわってきた理由の一つに剣道や空手道などのマーシャル・アーツにつながる「ファスト・ドロウ道」が有るように思えて仕方なかったからだ。しかしスポーツの世界では例えば柔道の胴着がカラーになったり、スピードスケートでのスラップスケート靴導入など合理性が追求されているのも一方で事実である。ファストドロウをスピードスポーツと考えればより早いタイムを期待できるツーハンドが台頭するのも不思議ではない。私も2002年の大会からは宗旨変えして積極的にツーハンドで参加しようと考えている。マークはおそらく一生サミングでいくだろうけど・・・。
【2002年3月11日発】
(株)ハートフォード代表 コネティ加藤
(成績や、会場の風景はピーメイクラブのHPにアップされています。興味のある方はそちらをご覧下さい。form
WEBスタッフ) |
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総合優勝の
コルト山田氏 |
皆さん
「ハイ・チーズ」 |
第7話 ネバダで手に入れたオールドSAA
空港ネタが私のページの真ではない!!と面目躍如した前回のハロルドコレクションの稿(特に写真)は満足いただけましたでしょうか?
うけを狙った原稿ばかりでなくピースメーカーファンの皆様に喜んでいただけるページにしなさいとクラブ(ピーメイ・クラブ)メンバーからもお叱りをもらったことですし、今回も決めますヨ。
題して、ネバダで手に入れたオールドSAA.です。
カジノ・ハロルドのコレクションルームでの至福の時を過ごし放心状態のまま帰路へ。案内をしてくれた人から、そういえばシスコに戻る途中に結構イケてるアンティークガンショップがあったなとの事。もう私の目はピースメーカーに心を奪われてハート型。多少の遠回りどころかピーメの為なら地の果てまでというわけで、件のガンショップへ。
ショップはこじんまりしていて綺麗だった。きりっとした空気が充満していた。日本でいう風格のある古書店といった感じで、小ぶりで背の低いガラスケースがズラリ並んでいた。
その奥にある一段高いカウンターにその店主がいた。
店内の写真を撮りたかったため店主に聞くと、はっきりとノーを言われた。結局、写真を撮ることはあきらめてしまった。
あつらえたようにショップにふさわしくウッドフロアで、歩くとコツン,コツンといった音が響いてさながら往時のガンショップにタイムスリップしたような不思議な感覚だった。
ふとカウンター脇のケースのシェリフスが目に入った。価格を見ると300ドルそこそこ。ホ、ホ、欲し〜い。これならポケットにある金で買える。常識的に考えたら一介の日本人ツーリストが買えるわけがないのだがハロルドですっかり麻痺させられた頭はその判断さえつけられない状況だった。 |
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撮影を断られたくせにおずおずと店主に聞く。ハウマッチ?こちらの答えも、もちろん毅然とした口調でノーだった。IDが無ければ買えないとの事。(前の稿でのIDの為に取った自動車免許証はとうに失効していた。トホホ)
ところがこのシェリフスはウベルティ製で現代銃なのでIDが必要なのだが、こちらは買うことが出来るぞと指差されたのが正真正銘のコルトシングルアクションアーミー45オールドモデル。アーティラリー51/2インチモデルだった。それはさながら後光を指した菩薩様のように私の目に飛び込んできた(表現が古いね)。と、同時にそのオールドモデルの声が耳元で聞こえたものだ。早く貴方のものにして〜んと色っぽく・・・。(多分ここらへんで何人かはまじめに読むのをやめただろうね。しかし今から考えるとこの時は完全にマヒしていましたネ。やれやれ)
店主が言うにはこのオールドモデルは1877年製で、アンティークのジャンルに入るものの為、現代銃を購入する場合とは違うと言うのだ。・・・ということはひょっとしてこれをもって帰ることが出来る?!(あくまでも米国内での事ですからネ。誤解なく。)彼は「もちろん」と答えた。麻痺したのはもう頭だけでなくのどはカラカラ、震える手でウォレットからカードを取り出している自分はさながら夢の中にいるようだった。
価格は約2500ドル、この時はこの値段が高いのか安いのかの判断さえつかなかったのである。
皆さんにはとくとこのオールドの写真を楽しんでいただきたい。このオールドは現在サンフランシスコ郊外の私の友人宅に預けてあり、まるで遠距離交際の恋人のように渡米時再会している。
【2001年7月11日発】
(株)ハートフォード代表 コネティ加藤 |
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SAAオールド |
ウィンドウ部 |
3rdモデル(右)
と比較 |
3rdモデル(右)
と比較
フルートの形状
の違いに注目 |
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3rdモデル(右)
と比較
ラチェットの形
に注目 |
3rdモデル(右)
と比較
ハンドの形の
違いに注目 |
ワンピース
グリップ |
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第6話 ハートフォードが出来た頃の昔話−その4 ハロルドコレクション
前回の空港トラブルから約11年後(まるでダイハードのマクレーン刑事みたいですが…)のお話、アメリカでの至福のひと時を今回は皆さんと共有したい。
本来、私としてはこういった幸せ話を皆さんに楽しんでいただきたかったのがついついトラブル話に行ってしまって……。
でも多分懲りずに書きますがネ。
この渡米は単なる旅行ではなく、雑誌GUNの取材を兼ねての社内研修旅行だった。
このレポートの詳細はGUN誌89年10月号のマイレポート「ラスベガスアンティークアームズショー」を読んでいただきたい。大体、アメリカに行くときはほとんどサンフランシスコが拠点となる。何度も来ている事も理由だが、一つは邦人、米人取り混ぜて私の友達が何人か居ること、ロサンゼルスに比べ比較的交通が便利なこと、町全体がきれいなことが挙げられる。
ただ、これは昔の感想なので現在のサンフランシスコとなるとオブジェクションが出るかもしれない。
西部開拓時代の銃、とりわけピースメーカーの大好きな私に耳寄りな情報が入った。それはネバダ州、リノ市にハロルドというカジノがあってそこにアンティークガンがしこたま展示されているという。称してハロルドコレクション、好事家たち垂涎の逸品が集められているとのことだった。
こんな情報を得て根っからのすきものの私がほっておくわけがない。勇躍、一路レンタカーでリノ市へ出発した。
ところで、向こうのハイウェイは恐ろしくだだっ広く未来永劫地平線が続いているような長さだ。マァ、映画なんかで知ってのとおりだが…。何度か向こうで車を運転してどうも悪い癖がついたかも知れない。ハイウェイに入って前方の遥か向こうの地平線を見るだけですぐ睡魔に襲われることだ。(オイオイ)
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免許証を持っているため(第3話参照)、私が運転者にならざるを得ない訳で助手席からの「加藤さ〜ん、起きてください」の必死の声で何度起こされたことだろう。一度などふっと横を見ると私と同じように寝ながら運転している人を見た。アンタもかい。無事、目的地へ着きなヨ。な〜んて気取って言ってる場合かっ!!
何とか無事にリノ到着。スロットマシン音を無視して目指すはハロルドコレクションのみ。実は80年の渡米のときはラスベガスで大損してバンクーバー行きのチケットは売るはロスのバスディーポでホームレスの如く野宿するはでギャンブルではいい記憶が無い。足取り軽くコレクションルームへ、とはいってもすぐ隣はスロットマシンの音が鳴り響いておいでおいでをしているのだが…。
縦型のおおきなガラスケースが左右にずらっと2列並んでその中にはあるわ、あるわ。もうそこに入り込んだだけでめまいがしてしまった。コレクションでもとくに念入りに見たのはピースメーカー何種類かとライトニング、数年後には映画「許されざる者」で使用されメジャーになったスタール、ターミネーター2でシュワルツェネッガーがライフルマンよろしくオートバイ上で振り回したウィンチェスターM87ショットガンなどなど、(これらの逸品の写真も下にアップしておいたので堪能して欲しい。)残念ながらこのハロルドコレクションはいまはもう無くなってしまったそうだ。97年に来日したカル・エルリッチ夫妻(米国の有名なファストドロウシューター、ビデオも出している。リノ在住)からもそう聞いたが、あのコレクションの数々はいったいどこに行ってしまったのだろう。リノに滞在した2日間のほとんどをこのコレクションルームで過ごしたことは一生の思い出になるだろう。
【2001年2月24日発】
(株)ハートフォード代表 コネティ加藤 |
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パターソン |
ドラグーン |
SAAオールド
キャバルリー |
SAAオールド
シビリアン |
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ライトニング |
ウインチェスター
M87、M97 |
ウインチェスター
M92、M94 |
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第5話 2000オールジャパンファストドロウチャンピオンシップ
ミニリポート
11月4日、5日の二日間、恒例のオールジャパンファストドロウチャンピオンシップがワフダ(WFDA)九州支部の主管で開催された。昨年同様私も参加したので簡単にお知らせする。
2000年最後のチャンピオンシップの開催されたベイサイドプレイスハカタは福岡空港からも新幹線博多駅からもタクシーで10〜15分程度の交通アクセス抜群のロケーションだった。
ベイサイドの名前の通り会場からは海が見える。
今回のチャンピンシップでは一日目にトラディッショナルとオープンの各スタイルを実施、2日目はダブルバルーン競技が開催された。一日目に参加できないシューターのため2日目前日の種目をこなして全種目に参加できるという特例もあった。出たいが2日は休めないといったシューターにとって朗報である。 |
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参加したシューターとして実際肌で感じたことはサミング(ワンハンド)より圧倒的にツーハンドのほうが有利であるということだ。なんとベスト5全員がツーハンドシューターであることがこれを証明している。それとダブルバルーンの出来によって総合順位が劇的に変わることだ。もちろん、それも競技としての醍醐味であるがそういった意味では日々の練習の中にダブルバルーンを取り入れて平均的なスコアを確保できるようにしておくべきだろう。結果は別として充実した2日間だった。
【2000年11月9日発】
(株)ハートフォード代表 コネティ加藤
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第4話 ハートフォードが出来たころの昔話−その3 空港でのトラブルその2
第2話で空港でのトラブルを書いたが今回も空港トラブルネタをお届けする。
こういうと私はいつも空港で困ったことに巻き込まれているようだが、決して故意にしているものでないことを強調しておきたい。表彰されたことはあってもこれらの出来事で警察のお世話になったことは(もちろんほかごとも・・・)ないので、この点はご理解の上読み進んでいただきたい。
場所はロサンゼルス空港。航空会社は名古屋〜ロス間の大韓航空だった。
運賃が安いせいかロス着が大幅に遅れてしまった。サンフランシスコで私をピックアップしてくれる約束があったために機中からもがき、あせっていた。スッチーさんに(最近はフライトアテンダントと言うそうだが・・・)事情を話し一番に降りれるよう頼んだ。
空港到着後は必死になって税関を抜けると、あとは脱兎の如く国内線に向かった。
背中には例のバックパッキング(第2話参照)を背負っていた(実は行きも帰りもトラブッテいたのデス)。
ほとんど、からのバックパッキングなので走るのは大変ではないが、気持ちばかりがあせってしまい、なかなか前に進まずやっとロス〜サンフランシスコ国内線についた時は搭乗が始まってしまっていた。あわててバックパッキングを航空貨物にと頼んだのだがもう時間が無い為そのまま機内荷物としてもって入ってくださいと言われた。
仕方なく荷物をエックス線検査のベルトコンベアに・・・。
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そこからが悲劇の始まりだった。じつはこの時、米国で本物とわが社のカスタムSAAとの対比写真を撮ろうといそいそとケースハードンカスタムを持ってきていて、それをバックパッキングに入れたままだった。
有色の太ったセキュリティのおばちゃんが思いっきりの声で叫んだもんだ。
「鉄砲があるわ!!」(もちろん英語でしたけどネ)
この声でまわりにいたセキュリティの人々がドドッと集まってきてしまった。
ヤバイ!!、私は犯罪者か?
本人は流れる冷や汗を感じながらそれは本物ではな〜い。プラスチックのおもちゃなんです。・・といっても通用する筈はなく。まずそのセキュリティのおばちゃんの一言は
「この飛行機にはアナタは乗れません。」という冷たいものだった。
結局、説明に次ぐ説明?(英語で説明って疲れんです)でやっと理解してもらい、機長預けにして次の便に乗せてもらった次第。
この時サンフランシスコ空港で待たせたジャック、ゴメンナサイ。
空港ネタはまだまだあるので機会があれば載せます。
乞う、ご期待!!(誰が期待するかっ!!)
【2000年10月5日発】
(株)ハートフォード代表 コネティ加藤
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第3話 ハートフォードが出来たころの昔話−その2 ドライバーライセンス取得
前回少しふれたが1980年に約半年間アメリカにいた。そのうち2ヶ月を研修のためコロラド大学で過ごした。この時のことをエッセイにまとめたことがあるのでそれを載せたいと思う。ちょっと長いので面倒なかたは飛ばし読みをおすすめする。
この頃はアメリカでピースメーカーを買って向こうに置いて1年に一回くらいは射ちに行く事を真剣に考えていたものである。アメリカでピースメーカーを手に入れるためにはID(身分証明)カードが必要だ。そのIDカードの中で一番信頼の高いものが運転免許証だ。運転免許証の中でも黄門様の印籠並、ハハァーと言わすブランド免許証が「カリフォルニアドライバーライセンス」なのだ。
これはその「カリフォルニアドライバーズライセンス」取得物語である。原文が
80年当時の為、20年後の現在と状況が変わっている部分が多々あると思うがその点はご勘弁を、、、、。
我が必殺運転免許取得作戦。
「加藤さん、アメリカでは簡単に車の免許証が取れるんですヨォ。」とコロラド大学でのルームメイト、斎藤君の言葉を思い出した。セミナー参加の連中は日本へ帰ってしまい、私は友人と会う為一人でサンフランシスコに来ていた。9月21日のことである。
帰国まで2週間あまりしか無いのも原因したと思うが、ここらで何か一つ挑戦して帰ってもいいなという気分だった。
よしっ、運転免許を取ろう!!。
帰国の為ロサンゼルスに戻らなくてはならないので5日以内で取れなければあきらめよう。そう決めて9月23日の午前中、サンフランシスコ市内のD.M.V.(Division
of Motor Vehicle)へ行き、問題集兼テキストをもらう。
人種のるつぼ、アメリカらしくテキストだけでも5ヶ国語分用意してある。
英語、日本語、スペイン語、中国語、あともう一つは仏語か独語と記憶。もちろん、日
本のようなことはなくテキスト代はタダ。日本語と英語各冊をもらい午後はホテルから外出することなく一心不乱にテキストを読む。5時間後、すっかり受かった気分、、、で準備万端。
二日目。友人たちからサンフランシスコ郊外にあるデリー市の試験が簡単という情報を仕入れ、BART(地下鉄)で勇躍デリー市へ!!(デリー市はロードテストが簡単なのであってペーパーテストはどこも同じ。念のため)。
地下鉄デリー駅からバスで10分、デリーDMVへ着くと10時なのにもうテスト受付に列が出来ている。
「ムムッ、敵もここが穴場だということを知っているな。」
順番が来て 3ドル 25セント支払い問題をもらう。これは実地テストも含んでの料金だ。安い!!。その上、テストに落っこちてもこの領収書でもう一度受けさせてくれるのである。
小生英語にはチト自信があるのでテストはもちろん英語で受ける。じつは英語以外の言語で受けると簡単な英語での口頭試問があって標識などの理解度を試されるのだ。テストの問題は36問あって6問以上×だと落ちることになる。
所定の椅子にすわり、解答を始めるが用紙の一番上に書いてあった言葉が印象的だった。
「この問題で数多くの人がすでに受かり、このカリフォルニアで運転しています。あなたもGood
Luck!!」
日本での落とす為のテストでなく取らせる為のテストであり、そこに日米の違いがあるようだ。
この日はペーパーテストだけを受けて帰る。エッ結果は?もちろん合格!!。なんと言っても受かる為の試験ですから、、、(笑)。
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三日目。朝からハーツでレンタカーを借りる。車はガスイーター、フォードモナーク。
これで一日練習。マックインの「ブリット」気分でサンフランシスコの坂を駆け抜ける。夕方はフィッシャーマンズワーフで車を横付けてレストランでディナー。横に美しい人が居たら最高なのに、、、。(このエッセイ絶対にカミさんには見せたくない!!)
四日目。大型車ですっかり左側通行、左ハンドルになれたのでこの日は一番安く、小さな日本の名車、ダッツンサニーを借りる。
前日に比べ車が極端に落ちるがこれも戦略。ステアリングがパワーでないのが玉にキズだがその分小さいので運転が非常にラク。やはり車は日本製に限ると満足。またまた、デリー市DMVに登場。前回と大きく違うのは地下鉄、バスの乗り継ぎでは無くあくまでも自分で運転してDMVへ到達したのでアル。
ここでお分かりの様に小生は国際免許証を持ってきていたのです。日本の過酷なまでの学科、実地とも優秀なる成績で通ったエライお方なのデス。(14年も昔だけど、、、)
大体、テストだけに限らず全般にアメリカさんは大まか。その証拠にコースは朝一つ決めたらずっとその日はそのロードコースだけ。これを知っていると知らないでは大違い!!。
スパイよろしくDMVの出口で待つこと3分。すぐにテスト車が出てくる。これを尾行してゆけばその日のコースがバッチリ分かろうというもの。これを繰り返すこと3回、午前中は終了。しかし頭の中にはコースが刻み込まれている。試験官の指示する英語がさっぱり分からなくても慌てる必要はないのですヨ。
近くのマクドナルドで昼食。さて午後からロードテスト。前々日もらったペーパーテスト終了の紙を持って車の列に並ぶ。車は全て持ち込みなのでハッとするようなスポーツカーやもうあの世行き寸前、お気の毒なトラックまでさまざまな車がテストを待っている。
小生の順番となったのだが規定のライン上で待っているとこの暑いのに風邪をひいた試験官。
ウィンカー、ブレーキランプの確認をしてからせきをしながらゼイゼイと車に乗り込んできた。思わずうつってなるかと顔を外にむける。おまけにドイツ系なのか、なんとケッタイな発音とイントネーション。
開口一番、「Did you see ショーガン?」と聞く。
はてな?そんな車のパーツってあったっけ?けげんな顔をしているとなおもうるさくショーガン、ショーガンと言う。例の50%近い視聴率をとったTV番組「ショーグン」と分かるにかなりの時間がかかった。車に関係ないことを急に言うな!!と一喝したかったがやめた。
面倒な指示も無く例の秘法でコースは熟知。無事テストは終える。最後にアドバイスをくれるが全体にスピードの出しすぎであるとの事。納得と反省。マークは92点くれた。喜び勇んで免許発行の申請にいくと係りのブロンド嬢が一緒に喜んで握手をしてくれた。サンフランシスコの友人宅へ免許証は送ってくれるよう頼む。
次の日、帰国の為あわただしくロサンゼルス行きのバスに乗り込んだ。充実した顔だったと思う。今でも時々あのドイツ系試験官の顔とイントネーションを思い出す。
【2000年9月14日発】
(株)ハートフォード代表 コネティ加藤
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第2話 ハートフォードが出来たころの昔話−その1 空港でのトラブル1
今までにやった仕事のなかでとても良い(?)思い出になっているのは価値ある○丁シリーズの一回目。
SAAロイヤルブルー、ジェイスコットパールグリップ付の仕事だった。(GUN誌1986年9月号の当社広告参照。)
この仕事のためジェイスコットパールグリップを199セット手に入れるため渡米した。今ならインターネットを使って簡単に手に入るものだが1986年当時から考えれば夢の話だったろう。その頃は私ひとりで会社(会社と呼べるものでなかったが、、、)を切り盛りしていたので10日渡米する為の準備に苦労したことを覚えている。
当時はコルト社がよく労働争議でストライキをやっていた為なかなかこのパールグリップがそろわなくていらいらしたものだった。
米国も銃業界の流通ルールがあって、最終的にはサンフランシスコのマケールガンショップでグリップを受け取り、その金額の精算をしたことを覚えている。
実はハートフォードが出来る数年前に私は米国へ放浪の旅に出かけ(この頃の経験、出会いが今でもとても役立っている。)半年間、私と苦楽をともにしたバックパッキン(背中に背負う大きなバッグ)がある。このバックパッキングを背負うって、このときも渡米したのだ。
グリップはそのバックパッキングにすりきれ一杯になって入れたものだ。想像してみたら結構不気味なものがある。バックパッキンの中は全てグリップだけだったのだから、、、。実はこの擦り切れ一杯パールグリップの入ったバックパッキングが問題だったのだ、帰りの名古屋空港で、、、。 |
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入国の手荷物検査の際、私はバックパッキングの上ふたを開け担当の人に見せたのだ。
「あの〜これを買ってきたのですが、、、。」担当の人はグリップを見るなり銃のものであることは理解したようだがその場で判断するのをためらいまた、私の後ろが長蛇の列だった為私にこういったものだ。「ちょっとお宅、待っててください。」と言って次の人を呼んだ。私は仕方なくスゴスゴとバックパッキングを抱え、待つこと1時間。やっと自分が呼ばれたら今度は別室に連れて行かれたのだ!!。この頃、関西では暴力団の抗争が起こっていて頻繁に銃撃戦があった頃だった。そのとばっちりをもろに受けてしまったのだ。パールグリップの包装紙を一つ一つご丁寧に開け、調べられたのだが、最終的にはすべて通関してもらった。当時の担当者さんご苦労様でした。そして有難うございました。
ただ、最後に部屋を出るときに「呼び止めて済みませんがジーパンのポケットの中のもの全て出してください。」と言われたのは最後の最後まで私を信用していなかったのですネ。グスン。映画のワンシーンのようなラストシーンでしたがポケットから出てきたのはくしゃくしゃになったドル紙幣と小銭でした。
当時の楽しい (?)思い出のひとつです。
【2000年9月2日発】
(株)ハートフォード代表 コネティ加藤
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第1話 イントロダクション
当社がピースメーカーにこだわる理由は私がピースメーカーのオーラと西部劇の魅力にとりつかれた為だ。
ピースメーカーのオーラを表すものとしてまずニックネームがあげられる。
本来S.A.A.45(シングル・アクション・アーミー45)というれっきとした商品名があるにもかかわらずPEACEMAKER(平和を作る)という別称を与えられていることだ。これは他の銃にはないことで魅力の証明といえる。
EQUALIZER(平等にする)というニックネームもあったそうだ。
次にそのオーラを表すのに製造期間があげられる。ピースメーカーは現在でもコルト社の象徴的製品として製造されている。
1873年に始まって2000年の現在に至るまで製造中止の時期はあったものの120年以上もの長い間作られつづけてきていることでもこの銃に銃としてだけの魅力以上の「なにか」があったからと思う。
また、ピースメーカーが主役を演じてきた数々の西部劇映画の強烈な影響もピースメーカーにこだわる理由のひとつである。
特に昭和30年代に始まったテレビウェスタンのとりこになったのは当時の私だけでない。イベントを私と一緒に盛り上げてくれるマーク渡辺、エージェント向川両氏もそうだった。 |
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「西部の男パラディン」「ララミー牧場」「ローハイド」「コルト45」「拳銃無宿」「ワイアットアープ」「シャイアン」などなど挙げはじめたら数限りない。
この頃の私たちは子供なりにこれらのテレビウェスタンから「強大な国アメリカ」と「正義」について学んだのではないだろうか。
ピースメーカーには魂がある。
それを何ものにも負けず前進するという「フロンティアスピリット」と捉える人もいるだろう。また、弱者を救い強者に対峙するという「正義」と捉える人もいるだろう。
私の中にもピースメーカーから培ったスピリットが息づいているのだ。そういった意味では当社はピースメーカー(モデルガン、エアソフトガン)というハードを製造・販売しているというよりも「フロンティアスピリット」という哲学を製品につけて売っていると言ったほうが適切なのかも知れない。
この宗教にも似た思いをあまりに熱く語りすぎてうんざりさせた諸兄にはここでお詫びしたい。
しかしこの思いに興味を持ってうんざりさせられたい人はいつでも来て欲しい。準備は出来ているのだから、、、。
【2000年8月16日発】
(株)ハートフォード代表 コネティ加藤
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ご清聴(?)ありがとうございました(笑) from WEBスタッフ@ハートフォード
(background illustrated by ソウマン)
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